教室破壊プロジェクト

教室破壊プロジェクト(仮)

決められた座席、黒板が前、を「破壊」する

学校の「当たり前」を問い直す!

社会を成り立たせる「常識」(「当たり前」)

私たちの社会は多くの「常識」で成り立っている。
その常識は、長い時間をかけて形成され、社会に必要だから存続している。
時折、「学校」は子どもが社会に出たときに、社会に適応できるよう訓練をする役割をもつと言われることがある。
これは、子どもの「社会化」を促す機能をもつ「学校」の一つの役割と言える。
ところで、子どもが学校で身につけるべき「常識」は何だろうか。
それは恐らく、親が我が子に、勉強以外にも学んでほしいと期待することだろう。
今回は、学校で「当たり前」とされていることに着目する。
そして、その「当たり前」は、どのような意味をもつのか、本当に必要であるかを考えてみる。

学校での「当たり前」

「当たり前」とされていることを知らなかったり、破ったりしたりする人は、なんと非常識な人だろう、教養のない人だろうと思われる。
学校で例を考えてみよう。
例えば、授業中、関係のない私語や行動(立ち歩くなど)はしてはならないとされる。
これは「当たり前」だ。
「なぜ授業中におしゃべりしてはいけないのだろう」
こんな問い自体がばかばかしく感じるのではないか。
そんなことを子どもが言ったときには、親や先生から「そんなことは当たり前でしょ!!」と叱られそうだ。
「当たり前」のメリットでもありデメリットでもある点がまさにこれだ(というより本質的なものであろう)。
メリットは、「当たり前」が集団を形成する人々に「共通認識」として理解されているなら、集団の管理が楽になることだ(授業がしやすくなる)。
「やってはいけないこと」をお互いに理解していると、あえて「やってはいけない行為」を取り締まる必要が無くなる(余計な指導が減る)。
一方で、「当たり前」は「思考停止」に陥りかねない。
なぜ「当たり前」かと問われたときに、はっきりとした存在意義を説明できなかったり、もしかすると半ば不必要だと思っていても「当たり前」とされているが故に、そのようにしているということがあるのだ(例えば子どもに、なぜ車が全く通る気配のない横断歩道の赤信号でさえも守らなければいけないのか、と聞かれたら説得力のある答えを返せるか、それとも守らなくていいと言うか)。

「当たり前」とされていることは、当然理由があって「当たり前」になったはずである。
話を先の例に戻すと、
授業中に私語を控えるのは当たり前だ、と思うのは、
「授業を受けている他の人に迷惑だから」、「授業に集中している周りの人の邪魔をすることになるから」、「自分たちのために授業をしてくれている先生に失礼だから」と、このような答えが考えられる。
確かに一斉授業において、勝手な私語をされては授業をする先生も、聞いている生徒もたまったものではない。授業が進まないではないか!先生の声が聞こえないじゃないか!
ただし、これは「一斉授業において」の「当たり前」である。
一斉授業では確かにこの当たり前はその名の通り当然だった。
しかし、「自由に話し合いができる」、「自由に立ち歩くことができる」という要素だけ見れば全く悪いものではない。
「授業形式が一斉授業で無ければどうか?」
学校の授業形式といえば一斉授業だ、というのも「当たり前」である。
もし、イエナ・プランのような、モンテッソーリ教育のような学びの場であればこの「当たり前」は「当たり前」でなくなるのではないか。
授業中に「他の人に迷惑になるから話すことができない」というのは学びの質が向上するチャンスを逃しているかもしれない。
例えば、先生の話を聞いていて、分からない点、もっと深く知りたい点、などがあれば気軽に質問したい、、、なのに「そのときに」質問できない。
自分が分からなかった点を、全体の授業の流れを止めてまで質問できない(良くも悪くも空気をよむことができる)、分からないなんて言うのは恥だ(ついていけていないことのカミングアウト)、と感じる子どももいるだろう。
もちろん一斉授業においても、気軽に質問できる雰囲気を作り上げたり、周りの人と相談できる時間を取ったり、授業後に分からない点を個別に聞く時間をつくる、という対応は可能である。
しかし、それらはやはり一斉授業では対応が難しい箇所を「補う」方法である。
一斉授業では対応が難しいこと、それはまさに一人ひとりの学びに対応するという点だ。

学校の「当たり前」は変えようと思えば変えられる?

本当は先の話の続きに「一斉授業の限界」について記述していたが、後日に回すことにした。
ここでは今回のテーマに合わせて、他の「学校の当たり前」の事例を挙げてみる。
学校と言えば?という感覚で箇条書きにしてみた。

・チャイム
 ・号令(起立、礼、着席)
・時間割り
 ・毎日決まっている(科目と時間)
・座席
 ・指定制(座る場所が固定)
 ・黒板が前
 ・全員同じ向き
・学級
 ・人数(30人)
 ・年齢(同学年)
・宿題(長期休暇課題)
 ・家でやる
 ・全員同じ課題
・通知表(評価)
・テスト
 ・一斉に、同時に行う
 ・学期末に行う
・給食(食育)
・清掃(給食後?の掃除の時間)
・教科書
特別支援学級
・授業時間(1時間=45分)
・持ち物の制限
 ・お菓子、ゲーム、スマホ

何もすべて不必要だと言いたいわけではない。
先にも述べたように、あえて「当たり前」になっていることを「なぜ?」と問わなければ、本来の目的とは異なった用途で使われる可能性があるのだ。
「当たり前」の意義を理解したうえで先生も子どもも「当たり前」を運用しなければならない。
メンバーの話し合いで議論が深まったのは、「時間割り」や「授業時間」、「通知表(評価のあり方)」などだ。
「毎日決まった時間に決まった教科をやることが子どもの学習意欲にどのように関わるか」、「子どもたちの「今の」気分に合わせて取り組む教科を決めたらダメだろうか」、「その場合、学習指導要領に定められている各教科の学習時間の確保はどうするのか」など。
また、「授業時間が45分、または50分など固定する必要はあるのか」、「授業時間と子どもの集中できる時間がマッチしているか」、「授業時間は機械的に区切られているが、「まだ今の学習を続けたい」といった、そのときの子どもたちの学びの流れの方が大切ではないか」など。
(重要なので)何度も言うが、「現行の学校制度の批判」をしたいのではない。
目的は、無意識に「当たり前」として子どもたちに押し付けていることが、子どもたちの自由な学び、活動の制限を(これまた無意識に)してしまっていないか、と考えることだ。
子どもの統率のためだけの「当たり前」、子どもの学びに寄与しない「当たり前」、は出来るだけ減らしていくべきだ。
学校は子どもを管理するためだけの機関ではない。

これらの論点を踏まえて、また「学校」のあり方を考えていこうと思う。
皆様も、ここに挙げられていない「当たり前」や、今の「当たり前」をこのように活用することでより子どもたちの学びにより寄与する、という意見があれば、是非教えていただきたい。

 

教室破壊プロジェクトとは?

「教室破壊」?なんて過激な…

プロジェクト名は「(仮)」とあるように、仮称です。
ただし、これまでの伝統的とされる「教室」の形態を「破壊」したいという思いは「ホンモノ」です。
「伝統的な教室形態」とは何か。それは、「同学年」の約30人(多いところは40人を超える)もの子どもが一つの空間(部屋)に集められ、座席もそれぞれ指定され、黒板を「前」としてすべての机と椅子が、そちらに向くように機械的に並べられている状態を指す。教師は黒板を背に、全児童(生徒)を隈なく見渡すことができ、誰が何をしているのか、しっかり私の話を聞いているか、授業に集中しているか、確認することができる。
全員が学校での「教育」を受けているはずなので、この伝統的な教室の光景を想像するのに難しくないだろう。
さて、読者のなかには、なぜその教室形態を破壊しようと思うのだ、教育の場としてよく計算されていて良い空間ではないか、と思われる人もいるかもしれない。
いや、そういう人こそいて欲しい。
私も教育を「受ける」立場であるときは、ほとんどこのシステムを懐疑的に考えたことはなかった。
私も運よく、不自由を感じなかったのである。
一方で、学校なんて大嫌いで、なぜ学校に行かなければならないのか?と思いながら過ごした人もいるかもしれない。
「教室破壊プロジェクト」と銘打っているのを見て、そうした「学校なんて…!!」と思っている人が活動しているのかと思われた人がいたかもしれない。しかし、そうではない(残念ながら?)。
このプロジェクトの目的は、「教室を破壊すること」ではない。
この点は非常に重要である。
このプロジェクトが目指すのは、新たな「学びの場」をつくることにある。
「伝統的な教室形態を破壊すること」はその手段でしかない。
つまり、「伝統的な教室形態」を「破壊」せずに残したまま「新たな学びの場」なるものをつくればいいということになる。
しかし、現状のままで実現するのは難しい。
故に「破壊」が必要である。
その理由を説明するにはまず、「新たな学びの場」が何かを示さなければならない。

「教室破壊」は「手段」である

プロジェクトが目指す「新たな学びの場」とは、端的に言えば、「子どもたちが自らつくる学びの場」である。
先に「伝統的な教室形態」を説明したが、かなり表現をフラットにしたつもりだ。ここでは少し反感を買うような形ではあるが、改めて説明してみたい。
伝統的な教室形態とは、「同じ年齢の子どもが、同じ空間に詰め込まれ、整列された机と椅子にそれぞれ配分され、決められた座席で、全員が黒板を前に、まっすぐ向いて座らされる。そして、教壇に立つ教師の目に常にさらされながら授業を受けなければならない」状態、と言えるかもしれない。
もちろん、全ての教室がこのような暗く窮屈な教室ではない。
ただ、この教室形態である必要は何かと考えることは、「教室」という子どもの学ぶ空間をつくる(提供する)先生の立場では必須である。
このプロジェクトでは、まさに「教室」という空間を考え直すことから始まった。
目標は、教室を「子どもたち自身がデザインし、つくりなおすことのできる空間」にすることである。
それは、子どもたち自身が、自分たちの学びに最も適した形態を築き上げていくことのできる空間の提供だ。
なぜ、子どもたちが教室をデザインできることが重要なのか。
それは、学びの主体が「子どもたち」だからである。
これまでの教室形態ではその観点が欠けていたかと言うと、そうではない。
子どもたちの学びの環境として最も良いものを先生たちが工夫してつくってきたことは紛れもない努力の結晶である(それを「破壊する」と表現するのはやはり不適切なので名前は後々変えたいと思っている…今は意気込みを汲み取っていただきたい…)。
ただ、なぜ完全に教室のつくり手を子どもたちに譲らないのだろうか。
そこには様々な不安が隠れているだろう。
「子どもたちに任せたらどうなるのか予想がつかない」、「授業がしにくくなるのではないか?」など確かに不安な要素はある。
だが、学びの主体が「子どもたち」であるなら、「学びの形態」もできるだけ子どもに任せたい。
一人一つの机と椅子が本当に「いつも」必要だろうか。
時には、ベンチで円をつくって話し合いがしたい、数人でひとつの机を使って同じ取り組みをしたい、もはや机や椅子はいらなくて床一面を使って何かしたい、こたつのスペースをつくって休むことのできる空間をつくるのはどうか、、、教室で「当たり前」とされていることは、子どもの学びの場を「無意識に」制限していないか。
子どもたちの学びの場である「教室」を、教師の権威で形成していては、本当の意味で「子どもたちが主体となった学び」が可能になるのだろうか。
子どもたちが自分で教室をデザインし築き上げる過程は、まさに自分のために環境を整えていく行為である。
自分の意見をクラスに伝えることで、教室を変えられるかもしれない、みんなの意見を組み合わせて、みんなが居心地の良いと感じられる教室をつくることができるかもしれない。
こうした感覚を子どもたちに感じさせることができれば、学びの主体として「自主性」を育むことができるのではないか。

子どもの自主性を最大限に生かすことのできる空間に、教室を変えていく。
そのための課題を徹底的に考え、そして多くの人が「よい」と「納得」できる教育を考えていく。
そういうプロジェクトにしたいと心から思っています。